Takapedia

画像は愛犬の「アレク」

Takaの団のこれから

26年間の人生において26歳の今年はどのようにして生きていけばいいのか?今までの3年間というか今までの人生は「ベルセルクのガッツ」のような自分をイメージして生きてきた感じ。けど昨年からなんかわからないけど「ヒーリングの時期」に入ったような気がする。人格というかなんかそういう感性的なものへの栄養がたくさん入ってくる。

今まではガッツとしてグリフィスというか魔の軍団と戦っているんだ!!という常に戦いの中に身を置いており日常的に疲弊し傷つきながらも更に傷をつける場所を探していたんだけれども、今は傷をつけるための場所が見つからない。「もういいんだ」という自分の中の声が大きくなっていると感じる。これが潜在意識というやつか。

しかしながら潜在意識の栄養を蓄えていこうという流れに反して「思考」が更なる戦場を求めさせる。おそらくこれから先戦場が目の前に広がることはない。精神的で幻想的に近い世界が広がっている。

思考が戦場を求めて何かを模索するたびに行き着く場所は大体同じ場所。どことは言わないが非現実的といえばそうなってしまうようなもの。しかし面白い事に思考が戦場を求めて同じところを走れば走るほど、違う景色が見えてきて「自分にとって本当に必要なもの」の無駄がそぎ落とされてく。体のいい勘違いや悪魔のささやきがどんどんとそぎ落とされていく。

自分にとって本当に必要なんだと確信はしていないが、近いうちに両足をつけるであろう場所へ、扉を開くべきなのか揺らぎの中にいる。

地に足がついた?

お疲れ様です。先程の記事を見ていてというか書いてる時点でも「現在の自分」と「周囲の人々」つまり「現状」を否定することによって新しい領域へ行きたがっている自分の姿が見えました。正直な話、自分の価値観から生み出された方向性であれ、他人の価値観が色濃く反映されている方向性であれ、どちらも「自分というエッセンス」は必ずあるはずなので、その人それぞれが何を大切にしているかが重要であり、優劣は存在していない。

今までもそうであるが、自分は大衆的なものを否定することによって、独自性の強い自分を強化しようとしてきた。趣味や仕事といった生き方全般に言える事なのだろうとも感じる。確かに自分が魅力を感じるものにマイノリティ的なものは多いが、それは現代ではマイノリティではあっても文化や社会を「今」という点で捉えるのではなく「流れ」としての線で捉えた場合マイノリティ性などあまりない。というかこの記事においてマジョリティになりたい自分という要素はさして重要ではないのでこの話題はここでおわり。

何が重要なのかというと、何かしらの形で優位性を自覚しておきたい自分がいるのだと思う。優位性を保つことは非常に重要だけれども、自分の内的世界において他者と自分を比較し自分がより優れていると「思い込む」ことはとても簡単で非常に子供じみたことだなと今は思う。

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さて社会への怒りが渦巻いていた時期も終り、ある程度折り合いをつけられるようになった自分はどうやって生きていくのでしょうか?全く見当もつかない。とりあえず今は自分が少しでも惹きつけられたものに対してアタックしていくことが大事なのかなあと思う。今までの自分のプライドを保つためにやってきた「あがき」も今の自分の大きな養分になっていると思うから。

 

前と比べて今の方が断然忙しくて材料もそろってるのに具体的な話がでてこないのは非常に不思議だな。

久しぶりにはてなブログに投稿してみる。

約一年前にブログを初めていろいろと書いたものの、結局放置してしまった。僕の子の放置癖というものはなかなかに治らないものだなあと自分でも反省している。この2年、3年の間に色んな人間と関わってきたがその中において私的成功を収める要素は「方向性」がより明確な人間であること。また私的成功とはいえない状態のいわゆる現状なにか自分が創出した価値観ではない借り物の価値観に依存している人ともたくさん出会ってきた。

現在の僕はどちらかというと、他人の価値観に乗っかって生きている。それゆえに今までの生活とのギャップが非常に激しく解消できない妙なもやもや感のようなものが非常に強い。今現在自分はどの方向に転じていこうかと悩んではいるのだが、ぬるま湯につかった状態で呆けてしまっていたようだ。

自分にとって私的成功が必要かどうかは今の自分からは判断がつかないが、よりスリルのある生活であったり、面白みのある状態になるためには何かしらもがく必要があるのではないかとは思う。

現在はビジネスモデルや投資についてのインプットをしているところだ。何故にこれらの勉強を始めたのかといわれるとその理由はよくわからないが、世間で有名な金持ち父さんの影響は受けてるんだろうなと感じる。これは自分自身の選んだ道ではないということも非常に痛感している。仮に自分が投資や事業によって成功したとしてもそこから得られるものに自分が価値を感じられるのかどうかはわからない。渇望しているものではない時点で見当はずれなインプットなんだろうなとも感じる。

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さて、久しぶりにブログらしいブログを書いた。最近は馬鹿向けのなんかよくわからないブログをつくったりしていたが、それもまた自分の能力であったり人間?人間というかなんだろう、兵器的な自分の要素の著しい劣化が生んだ一つの「中継地点」なんだろうなと感じる。

ああ、こうやって自分が感じるがままにキーボードを打ち続けることは非常に気持ちがいいな。今は何もない抜け殻同前、ダシをとりきった鶏がらのような人間だがまた自分ルートへ戻ることが出来ればなと感じる。

なんて生産性のない記事なんだ。ほんとに呆れた。

最近ふと地面に倒れたくなる

最近ふと地面に倒れたくなる。
寝転ぶのではなく倒れる。

イメージとしては全身の力を誰かに奪われて立つことができずに倒れる感覚。

どしゃっと地面に打ち付けられるからだ、起き上がることもなく、モノの様にただただ偶然目に入った風景を捉え続けたい。



割とそんな衝動に駆られる。



俗に言うところの精神エネルギーが枯渇してるのかもしれない。

ただ体が疲れているのかもしれない。

本当のところはよくわからない。

けれど僕は時々ぶっ倒れたくなる。

テレビCMにおける場面描写について

■先程テレビCMを見ていて、場面描写が約1.8秒毎に切り替わっていることに気づいた。企業ロゴやキャッチフレーズ、キャッチソングについては大体3秒ぐらいかな?
もうちと詳しく見ていくと色々わかるかも。

サブリミナル効果ってやつだな。

人間への動機付けの部分であったり印象づけに徹底してるのたのしいなあ

歪めて見る世界

■僕はものすごく歪んだ人間だと思う。理由はないけどすごく歪んだ人間だと思う。自分を神格化してるような錯覚もある。

歪んだ人が見てる世界も歪んでいる。ありのままではない。

例えば僕が一つの木を見たとする。けど僕はその木を見ようとしない。僕の中にある木を観察している。

僕が見る空は他の人たちと共有できる空じゃない。なぜなら僕の空を僕は独り占めしたいし他の誰が見ている空よりも優れていると思いたいからだ。

ものを見ているけれど僕は結局何も見えてないんだとおもふ

ベネフィットを感じさせる?


■なんかわからんけどとりあえず僕はマーケティングに力入れていこうと思った。個人で稼げる技術だし売る力、集客力ってどこにいっても重宝されるしね。

まあそんなこんなでまずは情報を売っていきたいところなんだけれども、その中で相手にベネフィットを感じさせるキーワードを使っていかなきゃならんということ。

ベネフィット感なー。。。
正直思いつく限りじゃ就活やら人生論やらなんかそんなしょーもないどこでも得られるようなものしか思いつかないし、多分競合もたくさんあるから市場価値は低くなるんやろな。

ウェブマーケティングを学んでいく中でそのものをベネフィットとして提供はできる。んでもって関連するベネフィットとしてネットビジネス、アフィリエイトの知識は出てくるだろう。

けど誰でもやってる内容なんだよなー。

多分何個かわけてサイト運営をしていかないといけないんだろうねー。

んでもって誰を集客したいのかちゃんと考えないとー。とりあえずはアフィリエイトをするためのベネフィット感を与えないといけないわけだから、何を売りたいのかを決めた方がいいのかな?決めないとなー。