Takapedia

画像は愛犬の「アレク」

仕事のお片付け、管理

現状いろんな情報がとっ散らかったままでこのままじゃいろいろと危ないのでお片付けをしようと思う。まず第一にお片付けをするためにアタリを付けなければいけない。

ジャンル分け。まず整理する情報が社外向けなのか社内向けなのか。社外向けの情報整理に関しては、顧客管理ってのがまず第一に挙げられる。この顧客管理をひとつとっても顧客情報を綿密にお片付けするのは相当骨が折れるし時間もかかる。膨大すぎて何をどうまとめたらいいのかも正直なところわからん。取引先の方針であったり担当者であったり、客の客のそういう情報もまとめなきゃいかん。二重の手間がかかるから非常にめんどくさい。中間業者しっかりせえや無能クソ!!!!

次に社内向けの情報のお片付け。これが本当に膨大。自分の役割として何をお片付けしたらいいのかすらいまだにわからん。とりあえず商品情報。売上。販売方針。というか社内情報と社外情報がリンクしてるのが一番ややこしい。商品を市場全体で捉えた時の情報をお片付けしたらいいのかわっからへん。

まずは大きい流れ自体を本当に自分が把握できているのかどうかとかんがあああああああああああ

※ブログを書きながら友人と話しててお片付けを段階的にするのが大事だと言われた。たしかに思い当たる部分をしらみつぶしに全部お片付けしてたら終わりがない。要素要因のお片付けとかになってくるとほんとに研究論文とかそんなのが書けるようになるけどそれは色々と負担が大きすぎるし、僕の仕事ではない。

なので段階的にどの情報をどの範囲でお片付けしていくのか「しっかりと決めて」お片付けしていこうかな。

これからの自分を構築していく。

今は2017年6月14日。今までの自分はどのように構成されてきたのか?

まず自分は価値のあるのモノを生み出すことに注力してきた。そして価値のあるものを生み出し続けられる自分であることを意識して生きてきた。より楽しくより効果的により効能があるなどそのように考えてきた。その中で生み出してきた軸は「アイデア」だ。

イデアを際限なく作り出し、実際のものを作ってこなかったのは何故なのか。それはより魅力的な未来像を描くことが好きだったから。もしくはそうしなければいけないというこだわりみたいなものが強かったのだろう。

しかしそれは社会の中で生きる上で周囲から求められてきたのか?否。求められるものに対してカラーの違う人間構築をしてきた。周りは役割を果たすことを求め、自分は生み出すことばかりを考えていた。ここで社会との溝がどんどんと深まる。自分だけの世界に取り残されていく。

では今までの自分の構築から更に次の自分構築をしていく必要がある。なぜなら生きていけなくなっちゃうから。自分自身の価値がどんどんなくなってしまうから。

次の自分を構成していくときの主要要素は何だろうか。それは「管理」や「整理」や「お片付け」であると感じている。今まで生み出すことにのみ意識を割き、自分の身の回りのものは日々散らかっていった。必要ないものと必要なものの区別がつかずにいた。

しかし例えば管理や整理ができたとしよう。(今の自分を取り巻くものを整理管理しようと思ったら相当大変だけど。)綺麗な状態になった後どうするのかがポイントである。整理や管理は日常的な自分を構成するものとしては大切だが。

ひとまずは整理と把握を行う。そして管理していく。

多分僕は無秩序な現状をコントロールしたいんだ。割と真理かな?

26歳整理

26歳になった。今自分がどこに立っているのか何を目指しているのかまったくわからない。霧の中で取り残されている。どこにいるのか自分がなんなのか全然わからない。

自分はどう進みたいのか??

自分がどう進んでいきたいのかが一番重要な気がする。どの方向に進みたいのか明確な部分を持ち続けていればいいんだろう。けど入社当初持っていた気持ちが消えてしまっている。なぜ消えているのか。

他の人に邪魔されているような気がする。どうでもいいようなことばかりに力を入れなければいけないような気がする。そんなものは邪魔だ、価値あるものだけを追求したらいいんだよ。なんでお前らは…なんでお前らはそんなものを必死に守ろうとするんだよ。そこは必要なのかよ。

不満は出てくるけど不満しか出てこない。

よくわからない中でよくわからないものがどんどん出てきてすべてが曖昧になる。そんでもって爆発するんだろう。やることが多すぎる。自分の立ち位置はどこなんだ。自分は何を望んでいるんだ。この曖昧な感覚は何なんだ。

なぜ 必要 なのかを考える

「なぜ必要なのか?を考えろ」

まず「なぜ必要なのか?」と考えることは私達へどのような影響を与えるのでしょうか。

「なぜ必要なのか」と考えることによって、そのものの「背景」「理由・意図」「目的」の3つが明確になります。

例を挙げると、あなたがおつかいでリンゴを買ってこいと言われたとします。そこでなぜ私はりんごを買う必要があったのか?という自問したとしましょう。するとたとえば病人への差し入れやアップルケーキを作るなどといった背景や目的、意図をたくさんイメージすることができます。

次にあなたが今置かれている状態を思い出します。周囲の状況や、自分の役割などです。すると今からお使いに行って買うりんごは差し入れの為なのか、はたまた料理を作る為なのか、りんごを投げ合って遊ぶためなのかなど、より近い理由をイメージすることが可能になります。それによって「どの価格帯のりんご」を買えばいいのか、「どんな大きさのりんごを買えばいいのか」「もしかすると買うべきものはりんごではないかもしれない」など、これから行う行動をより明確にする為の材料にもなります。

ではどういう時に「なぜ必要なのか考える」べきなのでしょうか?

ずばり、人から何かものを頼まれたとき、伝えられたことによって自分が行動を起こさなければいけない時です。りんごの例でも同じですよね?

具体的に言うと「仕事でお客さんから何かを頼まれたとき」「仕事で上司から何かを命令されたとき」などです。その時は言われたことに従えばよいのですが、目的や意図や背景をイメージ、共有していなければ後になって応用が効かないその場限りの経験になってしまいます。

「なぜ必要なのか」を考えることによって、曖昧な行動からより明確な行動にシフトしていきましょう。

 

途中で何言ってんのかわからなくなった。

Takaの団のこれから

26年間の人生において26歳の今年はどのようにして生きていけばいいのか?今までの3年間というか今までの人生は「ベルセルクのガッツ」のような自分をイメージして生きてきた感じ。けど昨年からなんかわからないけど「ヒーリングの時期」に入ったような気がする。人格というかなんかそういう感性的なものへの栄養がたくさん入ってくる。

今まではガッツとしてグリフィスというか魔の軍団と戦っているんだ!!という常に戦いの中に身を置いており日常的に疲弊し傷つきながらも更に傷をつける場所を探していたんだけれども、今は傷をつけるための場所が見つからない。「もういいんだ」という自分の中の声が大きくなっていると感じる。これが潜在意識というやつか。

しかしながら潜在意識の栄養を蓄えていこうという流れに反して「思考」が更なる戦場を求めさせる。おそらくこれから先戦場が目の前に広がることはない。精神的で幻想的に近い世界が広がっている。

思考が戦場を求めて何かを模索するたびに行き着く場所は大体同じ場所。どことは言わないが非現実的といえばそうなってしまうようなもの。しかし面白い事に思考が戦場を求めて同じところを走れば走るほど、違う景色が見えてきて「自分にとって本当に必要なもの」の無駄がそぎ落とされてく。体のいい勘違いや悪魔のささやきがどんどんとそぎ落とされていく。

自分にとって本当に必要なんだと確信はしていないが、近いうちに両足をつけるであろう場所へ、扉を開くべきなのか揺らぎの中にいる。

地に足がついた?

お疲れ様です。先程の記事を見ていてというか書いてる時点でも「現在の自分」と「周囲の人々」つまり「現状」を否定することによって新しい領域へ行きたがっている自分の姿が見えました。正直な話、自分の価値観から生み出された方向性であれ、他人の価値観が色濃く反映されている方向性であれ、どちらも「自分というエッセンス」は必ずあるはずなので、その人それぞれが何を大切にしているかが重要であり、優劣は存在していない。

今までもそうであるが、自分は大衆的なものを否定することによって、独自性の強い自分を強化しようとしてきた。趣味や仕事といった生き方全般に言える事なのだろうとも感じる。確かに自分が魅力を感じるものにマイノリティ的なものは多いが、それは現代ではマイノリティではあっても文化や社会を「今」という点で捉えるのではなく「流れ」としての線で捉えた場合マイノリティ性などあまりない。というかこの記事においてマジョリティになりたい自分という要素はさして重要ではないのでこの話題はここでおわり。

何が重要なのかというと、何かしらの形で優位性を自覚しておきたい自分がいるのだと思う。優位性を保つことは非常に重要だけれども、自分の内的世界において他者と自分を比較し自分がより優れていると「思い込む」ことはとても簡単で非常に子供じみたことだなと今は思う。

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さて社会への怒りが渦巻いていた時期も終り、ある程度折り合いをつけられるようになった自分はどうやって生きていくのでしょうか?全く見当もつかない。とりあえず今は自分が少しでも惹きつけられたものに対してアタックしていくことが大事なのかなあと思う。今までの自分のプライドを保つためにやってきた「あがき」も今の自分の大きな養分になっていると思うから。

 

前と比べて今の方が断然忙しくて材料もそろってるのに具体的な話がでてこないのは非常に不思議だな。

久しぶりにはてなブログに投稿してみる。

約一年前にブログを初めていろいろと書いたものの、結局放置してしまった。僕の子の放置癖というものはなかなかに治らないものだなあと自分でも反省している。この2年、3年の間に色んな人間と関わってきたがその中において私的成功を収める要素は「方向性」がより明確な人間であること。また私的成功とはいえない状態のいわゆる現状なにか自分が創出した価値観ではない借り物の価値観に依存している人ともたくさん出会ってきた。

現在の僕はどちらかというと、他人の価値観に乗っかって生きている。それゆえに今までの生活とのギャップが非常に激しく解消できない妙なもやもや感のようなものが非常に強い。今現在自分はどの方向に転じていこうかと悩んではいるのだが、ぬるま湯につかった状態で呆けてしまっていたようだ。

自分にとって私的成功が必要かどうかは今の自分からは判断がつかないが、よりスリルのある生活であったり、面白みのある状態になるためには何かしらもがく必要があるのではないかとは思う。

現在はビジネスモデルや投資についてのインプットをしているところだ。何故にこれらの勉強を始めたのかといわれるとその理由はよくわからないが、世間で有名な金持ち父さんの影響は受けてるんだろうなと感じる。これは自分自身の選んだ道ではないということも非常に痛感している。仮に自分が投資や事業によって成功したとしてもそこから得られるものに自分が価値を感じられるのかどうかはわからない。渇望しているものではない時点で見当はずれなインプットなんだろうなとも感じる。

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さて、久しぶりにブログらしいブログを書いた。最近は馬鹿向けのなんかよくわからないブログをつくったりしていたが、それもまた自分の能力であったり人間?人間というかなんだろう、兵器的な自分の要素の著しい劣化が生んだ一つの「中継地点」なんだろうなと感じる。

ああ、こうやって自分が感じるがままにキーボードを打ち続けることは非常に気持ちがいいな。今は何もない抜け殻同前、ダシをとりきった鶏がらのような人間だがまた自分ルートへ戻ることが出来ればなと感じる。

なんて生産性のない記事なんだ。ほんとに呆れた。