Takapedia

画像は愛犬の「アレク」

目立ちたいという感情

今現在友人と話をしながら先程の記事を書いたわけだが、自分はどうしても「人に見られたい、そのうえでよく思われたい」という気持ちがすごくつよい。今現在その友人は結構大変な状況にあり、その話を聞いたうえでこのブログのようなアウトプットを勧めた。

たしかにこういうアウトプットをすることは精神衛生上、そして自分自身の次へ進む力となりやすいという点では非常におすすめだなと心から感じている。しかしそのノウハウだけではなく実際にこのブログをその友人に見せた。なぜか?

「目立ちたい」「賢いと思われたい」「レベルが高い人間だと思われたい」

こういった自己愛というかプライドを満たしたいという感情が友人をブログへ招いたのかもしれないという気持ちが非常に多い。また見ていただいている友人に謝っても済まされないことではあるのだが、「自分がこうやってるからお前もこうやってみろよ、うまくいくから」と若干人をナメたような、自分を高く評価しすぎているような感じのスタンスであることは否めない。というかそういう部分が強い。

この部分は今日まで書いてきたあらゆる記事に含まれている。自分への自己愛が膨れ上がったおぞましい欲望の化け物みたいな、自分が気づいてないうちに一人歩きする「制御できない部分」だ。どうしたものか。

今の現状では自分のこういうおぞましい怪物をてなづけられる方法が見つからない。自分としてはすごく欲をさらけだしまくっているみっともない状態だと感じるので、本当の意味で良いブログを残せるような状態にしていきたい。

↑この考えも人から認められたいという気持ちがつよい。

おわり

特に困ってないけど書く

今現状ストレスというか自分にとってどうしようもない状態からある程度は抜け出すきっかけというか光の道筋は見えてきた。このきっかけ、道筋、目の前の霧を晴らすためにやったことはなんだろうか。

まず一つは本を読むこと。けど自分にとって必要な本でなければいけないなと感じる。こういうものは既に自分の部屋に置いてある場合が多い。「読まなければいけないな」と思うようないわゆる衝動買いしてしまった本なんかがそれにあたる。

実際に自分の課題となる本を読んでみてわかったことがある。それは、周りに自分の成長を委ねてはいけないということだ。自分の成長というか自分の生殺与奪兼というか。正直自分の成長を委ねてはいけないとかそういうことは言いすぎな部分はあると思う。けどほんとに「自分で課題を見つけて問題を解決していく」というスタンスは絶対に取っていった方がいいと思う。

本を読まずに人から話を聞いて学んだ方がいいという人もいる。たしかにそうだ、周りの人は自分の持っていない視点を持っている。これが自分にとって思いがけない幸運のアドバイスとなることは少なくない。

だが考えてみよう。周りに自分が何かしらの教えであったり、方向性を求めているということは、自分自身に問題を抱えているということだ。改めて言わなくてもいいようなことでもあるが・・・。

なので自分でどうしようもない問題にぶつかったとき、どうやったら現状から抜け出して新しいステップに行けるのかを考えるべきだと感じている。また、自分のその時点での気持ちや考えやより良い状態へ持っていくタメのアイデア、改善案っていうものは頭の中で考えるだけじゃなくてこのブログみたいにどんどんアウトプットして「振り返ることができる状態」にしておくことが大事だ。

このブログのタイトルは「Takapedia」であるが、まさに自分の人生をより良い方向へ導く自分の気付きを集約した「自分がよりよくより豊かに生きるための辞書」というかけがえのないものになっていくのだと思う。

正直書いててすごく楽しい。思いついたことをぼんぼんと出して言って気付きを得ているような感覚だ。だがしかしこの楽しい感情、気付きの連続による自分への有能感が自分自身をどのような方向へ導いていくのか振りかえって考えなければいけない。

※~しなければいけないという言い回しが多い。

蓄積されない経験

最近何をしていても自分にとって意味のないものであったり、何も蓄積されていないような感覚である。なぜこんな感覚になっているのか少し考えた結果、自分の意思で行動出来ていないからではないかと考えた。右往左往させられている状況は一定の方向性をもって行動することが出来ず対応に追われるのみだ。これがなぜ悪いのかというと、断片的な部分しか判断基準にならないので十分に準備したのちの「改善」へ意識が向けられないからである。課題すらわからない状況であるということ。

日々の「To do」は確実にあるけど、顧客や製品、戦略といった「販売戦略」から枝分かれしたルートが乱雑な状態にある現状の課題をなんとかして拾い上げていかなければいけない。そのためにはやはり一つに絞って「お片付け」に取り掛からなければいけないのだろうか。

「ではどのようにしてお片付けをしていきますか??」

仕事のお片付け、管理

現状いろんな情報がとっ散らかったままでこのままじゃいろいろと危ないのでお片付けをしようと思う。まず第一にお片付けをするためにアタリを付けなければいけない。

ジャンル分け。まず整理する情報が社外向けなのか社内向けなのか。社外向けの情報整理に関しては、顧客管理ってのがまず第一に挙げられる。この顧客管理をひとつとっても顧客情報を綿密にお片付けするのは相当骨が折れるし時間もかかる。膨大すぎて何をどうまとめたらいいのかも正直なところわからん。取引先の方針であったり担当者であったり、客の客のそういう情報もまとめなきゃいかん。二重の手間がかかるから非常にめんどくさい。中間業者しっかりせえや無能クソ!!!!

次に社内向けの情報のお片付け。これが本当に膨大。自分の役割として何をお片付けしたらいいのかすらいまだにわからん。とりあえず商品情報。売上。販売方針。というか社内情報と社外情報がリンクしてるのが一番ややこしい。商品を市場全体で捉えた時の情報をお片付けしたらいいのかわっからへん。

まずは大きい流れ自体を本当に自分が把握できているのかどうかとかんがあああああああああああ

※ブログを書きながら友人と話しててお片付けを段階的にするのが大事だと言われた。たしかに思い当たる部分をしらみつぶしに全部お片付けしてたら終わりがない。要素要因のお片付けとかになってくるとほんとに研究論文とかそんなのが書けるようになるけどそれは色々と負担が大きすぎるし、僕の仕事ではない。

なので段階的にどの情報をどの範囲でお片付けしていくのか「しっかりと決めて」お片付けしていこうかな。

これからの自分を構築していく。

今は2017年6月14日。今までの自分はどのように構成されてきたのか?

まず自分は価値のあるのモノを生み出すことに注力してきた。そして価値のあるものを生み出し続けられる自分であることを意識して生きてきた。より楽しくより効果的により効能があるなどそのように考えてきた。その中で生み出してきた軸は「アイデア」だ。

イデアを際限なく作り出し、実際のものを作ってこなかったのは何故なのか。それはより魅力的な未来像を描くことが好きだったから。もしくはそうしなければいけないというこだわりみたいなものが強かったのだろう。

しかしそれは社会の中で生きる上で周囲から求められてきたのか?否。求められるものに対してカラーの違う人間構築をしてきた。周りは役割を果たすことを求め、自分は生み出すことばかりを考えていた。ここで社会との溝がどんどんと深まる。自分だけの世界に取り残されていく。

では今までの自分の構築から更に次の自分構築をしていく必要がある。なぜなら生きていけなくなっちゃうから。自分自身の価値がどんどんなくなってしまうから。

次の自分を構成していくときの主要要素は何だろうか。それは「管理」や「整理」や「お片付け」であると感じている。今まで生み出すことにのみ意識を割き、自分の身の回りのものは日々散らかっていった。必要ないものと必要なものの区別がつかずにいた。

しかし例えば管理や整理ができたとしよう。(今の自分を取り巻くものを整理管理しようと思ったら相当大変だけど。)綺麗な状態になった後どうするのかがポイントである。整理や管理は日常的な自分を構成するものとしては大切だが。

ひとまずは整理と把握を行う。そして管理していく。

多分僕は無秩序な現状をコントロールしたいんだ。割と真理かな?

26歳整理

26歳になった。今自分がどこに立っているのか何を目指しているのかまったくわからない。霧の中で取り残されている。どこにいるのか自分がなんなのか全然わからない。

自分はどう進みたいのか??

自分がどう進んでいきたいのかが一番重要な気がする。どの方向に進みたいのか明確な部分を持ち続けていればいいんだろう。けど入社当初持っていた気持ちが消えてしまっている。なぜ消えているのか。

他の人に邪魔されているような気がする。どうでもいいようなことばかりに力を入れなければいけないような気がする。そんなものは邪魔だ、価値あるものだけを追求したらいいんだよ。なんでお前らは…なんでお前らはそんなものを必死に守ろうとするんだよ。そこは必要なのかよ。

不満は出てくるけど不満しか出てこない。

よくわからない中でよくわからないものがどんどん出てきてすべてが曖昧になる。そんでもって爆発するんだろう。やることが多すぎる。自分の立ち位置はどこなんだ。自分は何を望んでいるんだ。この曖昧な感覚は何なんだ。

なぜ 必要 なのかを考える

「なぜ必要なのか?を考えろ」

まず「なぜ必要なのか?」と考えることは私達へどのような影響を与えるのでしょうか。

「なぜ必要なのか」と考えることによって、そのものの「背景」「理由・意図」「目的」の3つが明確になります。

例を挙げると、あなたがおつかいでリンゴを買ってこいと言われたとします。そこでなぜ私はりんごを買う必要があったのか?という自問したとしましょう。するとたとえば病人への差し入れやアップルケーキを作るなどといった背景や目的、意図をたくさんイメージすることができます。

次にあなたが今置かれている状態を思い出します。周囲の状況や、自分の役割などです。すると今からお使いに行って買うりんごは差し入れの為なのか、はたまた料理を作る為なのか、りんごを投げ合って遊ぶためなのかなど、より近い理由をイメージすることが可能になります。それによって「どの価格帯のりんご」を買えばいいのか、「どんな大きさのりんごを買えばいいのか」「もしかすると買うべきものはりんごではないかもしれない」など、これから行う行動をより明確にする為の材料にもなります。

ではどういう時に「なぜ必要なのか考える」べきなのでしょうか?

ずばり、人から何かものを頼まれたとき、伝えられたことによって自分が行動を起こさなければいけない時です。りんごの例でも同じですよね?

具体的に言うと「仕事でお客さんから何かを頼まれたとき」「仕事で上司から何かを命令されたとき」などです。その時は言われたことに従えばよいのですが、目的や意図や背景をイメージ、共有していなければ後になって応用が効かないその場限りの経験になってしまいます。

「なぜ必要なのか」を考えることによって、曖昧な行動からより明確な行動にシフトしていきましょう。

 

途中で何言ってんのかわからなくなった。